六郷田無道の不思議

 世田谷区祖師谷6丁目にある塚戸公園に「せたがや百景」の説明板があり、「48上祖師谷の六郷田無道」として、「この道は、かつて「府道六郷田無線」といって、今の中央線である甲武鉄道が明治22年に新宿~八王子間に開通するまでは、六郷・蒲田方面から大岡山・上馬を経て給田の北縁を通り三鷹を経由して田無方面に通じる昔の往還でした。今では狭いうえに交通量も多く、古い道とは想像もできませんが地形に素直に合っている道筋は、なぜか人の匂いがあります。」とあります。

 ところが、色々調べても「府道六郷田無線」というのがあったことを確認できません。府道に大森田無線というのはあったようで、これと混同したのでしょうか。世田谷区のホームページを「六郷田無線」で検索しても何もヒットしなく、世田谷区も誤りに気付いているようです。
 また、「六郷田無道」というのをグーグルや国会図書館で検索しても、昭和50年以降の世田谷区教育委員会の出版物に出てくるだけで、それ以前に用いられていたことを示すものは見つからず、従来から用いられてきた名称ではないようです。


 Acoustic Touringさんのホームページに六郷田無道の詳しい説明がありました。これを見ると、六郷田無線、六郷田無道は三田義春氏が創作した道筋にすぎないようです。三田義春氏と世田谷区教育委員会が古道を捏造したといえるのではないでしょうか。三田義春氏のいう府道六郷田無線のルートに近いものは、池上川崎線、駒沢池上線、駒沢吉祥寺線の3つの府道を繋いだものになりますが、田無ではなく吉祥寺に至るものです。

 このホームページには、新川にも六郷道の道標があることが紹介されています。小金井市誌 5 本編 地名編に六郷道のことが記載され、小金井にも六郷道があったようですが、p.60の図に示される六郷道は迅速地図には描かれてなく、江戸後期には消失していたようです。江戸中期の六郷道は、新川から田無ではなく、小金井に通じていたようです。
 新川からの道は、分れて江戸や品川、相州方面などに向かうこともできるのに、行き先を六郷とするのには相当に違和感があります。府中からの品川道が、大國魂神社の神事のために神職たちが通った道であったように、何か特別な理由があったのでしょうか。また、道の先は甲州街道で、江戸に向かうのも自然です。「えど」のくずし字が「六ごう」と誤読されたことがあったのでしょうか。

 江戸時代に、小金井や田無などから西に向かう旅人は、六郷まで行かずに、多摩川上流の渡しから相州に移るのが普通と思います。川崎大師などに行くには、六郷に向かったでしょうし、六郷から東海道を下って行こうとした人もいたかと思われますが、それほど多くの旅人が六郷に向かったとも思えません。

 世田谷の古道p.33に説明されている桜丘1-4-12にある道標からみて、世田谷辺りでは府中から青山に行く道として認識されていたようですし、p.34とp.38に古老の話からは、榎交差点までは滝坂道とよばれていたようです。大正2年荏原郡農会史という資料にも、「瀧坂道は世田谷村地内厚木街道より分れて松澤村を経北多摩郡神代村にて甲州街道に接続し」とあり、田無とか六郷に向かう道とは全く認識されていなかったようです。

 東京府荏原郡勢一覧によると、世田谷から給田までは品川往還と名付けられていたようで、六郷ではなく品川に向かう道とされています。

 目黒区の歴史 (東京ふる里文庫 ; 4)のp.96に目黒区の環状7号線は六郷道といわれた旧道の所を通っていることが書かれています。この六郷道は、府道として計画され整備された池上川崎線、駒沢池上線の一部のようで、江戸時代から六郷道と呼ばれていたものではないようです。池上から東雪谷、洗足池の西、大岡山駅のそばを通る道は、江戸時代には、新編武蔵風土記稿の道々橋村、碑文谷村のところにあるように、丸子道と呼ばれていた道で、六郷道ではありません。

 

 これから歩てみる古道を調べていたのですが、捏造されたとしか思えない六郷田無道は候補から外して、新編武蔵風土記稿の道々橋村、碑文谷村のところに出てくる丸子道、下目黒村、中延村のところに出てくる池上道を候補に入れることにしました。

 また、いまだに「せたがや百景」から削除せずに残している世田谷区の学芸員の程度の低さには思いやられるものである。

 

 滝坂道人見街道というのも、明治以降になって付けられた近代の道路の名前のようで、近世や中世の古道の名前ではないようです。