品川道と品川区が設置した道標

 新編武蔵風土記稿に出てくる品川道を見て行きます。

 荏原郡馬込領池上村のところに、「村内一條の往還あり、東の方堤方村より入り、本門寺の門前を橫ぎりて西の方德持村に達す、この往還郡中品川宿より橘樹郡稻毛領に達す、故にこれを稻毛道とも、或は品川道とも呼べり」とあります。品川から平間の渡しに向かう今の都道421号線に沿った道のようです。
 馬込領馬込村の所には、「こゝに稻毛道と云往還あり、村内へかゝること十三町餘、東より西へ貫けり、或は是を品川道とも呼ふ、品川宿より橘樹郡稻毛領への往來なる故なり」とあります。大井三ツ又交差点で都道421号線と分れ、光学通りを抜け、道なりに中原街道の洗足坂上交差点で中原街道に合流し、丸子の渡しに向かう道のようです。
 荏原郡馬込領碑文谷村のところには、「村内三條の往還あり、其一條は丸子道と呼ぶ、北の方上中目黑村の界より南の方馬込村の方へ貫けり、一條は品川道と云、是は丸子道の岐路なり、村の中程法華寺の前にて分れ、それより北の方戸越下目黑二村の境に達す」とあります。新馬場駅のところから、大崎二丁目と西品川三丁目の境を通り、小山二丁目と小山三丁目の境を通って平和通りにはいり、圓融寺に至る道のようです。

 これらはいずれも品川に向かう道ですが、多磨郡世田ケ谷領下飛田給村のところに、「村内に往還の小路二條あり、一は下石原宿の南にあり、西上石原宿より東の方小島分村へ達す、村内にかゝること六町餘、これを品川道と呼べり、一は同じ宿の北の方にあり、西は上飛田給村より東の方小島分村へ達す、村にかゝること七町半餘、これを中道と云、道幅いづれも四尺許」とあります。府中や調布で品川道と呼ばれている道のようですが、この道は品川だけでなく方々に行くことができる道だから普通は品川道とは呼ばないものなのに、なぜ品川道と呼ばれるか謎です。
 Acoustic Touringさんのホームページ広報しながわ平成28年5月1日号から、この謎が解けました。この道は、甲州道中ができる前、大國魂神社のお浜降りの神事の際に神職が行き来していたし、品川には品川湊があり、この道で品川に行き来する人もあったので、品川道と呼ぶようになったようです。
 江戸時代になって甲州道中ができ、神職たちだは甲州街道で金子村まで行き、品川に向かうようになったようで、品川に向かう一般の旅人も、甲州道中を利用することが多くなっていったのでしょう。ただ、甲州道中を品川道と呼ぶことはありません。
 Acoustic Touringさんのホームページの地図①で、赤の府中から二本松までの道や緑の道は、大國魂神社神職が通った道ではありますが、それだけで品川道と呼べるものではではないと思います。

 中世に神職たちが通った品川道というと、その特定はきわめて困難なことになります。広報しながわでは、推定ルートとして、雪ヶ谷で、馬込村を通る品川道に合流するルートを示しています。また、Acoustic Touringさんのホームページの青~赤ルートも一つの候補となります。こちらは法華寺(今は圓融寺)からの品川道に合流するルートになります。いずれも可能性はありますが、中世にも神職たちは目黒不動に寄っていたりしたとすると、Acoustic Touringさんのホームページの青~赤ルートの方が正解になります。

 府中市白糸台1丁目に、嘉永6年の品川を示す庚申塔道標があり、江戸時代にも、品川に向かう裏道として利用されていたようです。
 ネットにアップされている品川道を歩いた人の記録を見ると、多くの人が広報しながわの推定ルートを歩かれていますが、Acoustic Touringさんのホームページの青~赤ルートと比べると、いずれも甲乙つけがたく、江戸時代の旅人はどちらのルートも利用していたと思われます。広報しながわの推定ルートは、江戸時代に品川に向かう裏道としての品川道の一つといえるだけの道ようです。

 他の品川を示す道標も、これらの品川道の多少の裏付けにはなるでしょう。東玉川神社に移設された庚申供養塔道標が奥沢4丁目にあったとか、めぐろ歴史資料館に移設された道標が目黒区中央町にあったとか、目黒本町1丁目に庚申塔道標があるとか、不確かですが、尾山台二丁目にあった馬頭観音道標が傳乗寺に移設されたらしいです。

 

 馬込村を通る品川道の、中延5丁目のところに天保2年の、「東 品川道」・右面に「北 めくろみち」・左面に「南 いけかみミち」・裏面に「西 せんそく おくさハ 道」と案内する道標があり、近くの中延みちしるべ防災広場に、品川区が品川道の道標を建てているのですが、その説明文は、「品川道は、武蔵国国府であった府中と中世からの港湾都市として栄えた品川を結ぶ道です。現在も府中市大國魂神社のくらやみ祭(東京都指定無形民俗文化財)は品川沖でお浄めの海水を汲むところから始まります。かつて、神官たちの一行は品川道を通って府中と品川の間を往復しました。国府の地一番の神社の例大祭が品川から始まるのは武蔵国における品川の地の高い重要性を物語るものでしょう。品川道は幾筋かあったようですが時代は流れて都市化が進みいずれもまちの中に埋もれてきています。そのためここに「品川道」の道標を建て往時の由緒を後世まで伝えていこうと思います。」とあるそうで、神官たちの一行が、この道を通ったかのように読み取れます。広報しながわに推定ルートとあるように、神官たちの一行が、この道を通ったことが確かではないにもかかわらず、事実であるかのような説明文です。行政は正しく情報を伝えるように努めてほしいものです。