1970年の横関英一著「江戸の坂東京の坂」の「昔の坂と今の坂」の項で、横関英一さんは、壱岐坂をあげて、「昔の坂が、はっきりと残っているからには、その坂を無視することはいけない。新しいほうの壱岐坂にしても、壱岐坂と名のること自体、せんえつで、坂が残っている以上は、その坂の名は壱岐坂であって、新しくできた坂は、「新壱岐坂」と称すべきであろう。新壱岐坂は最近できた新坂であるから、江戸の坂ではない。江戸の坂は古いほうの壱岐坂である。」と考えを述べておられます。
歴史をないがしろにするだけでなく、壱岐坂が二つあれば混乱することにもなるので、当然の考え方であって、1980年の「ぶんきようの坂道」p.28,29では、古いほうを壱岐坂、新しい方が新壱岐坂とされ、今では、文京区はそれぞれの坂に標柱を建てています。ただ、新壱岐坂の道が「壱岐坂通り」とされ、壱岐坂通りが交差点名にもなっているので、新壱岐坂を壱岐坂と間違える人もいるかもしれません。
1971年に「東京の坂道 : 生きている江戸の歴史」を書いた石川悌二は、横関英一さんとは考えが違っていたようです。
本郷の東富坂では、「現在の東富坂は市外電車を開通するために改正された坂路で、それ以前の東富坂は・・・」としながら、改正された坂道のほうを東富坂とするし、四谷の暗闇坂でも、江戸時代から続く暗闇坂ではなく、昭和の初めにできた迂回路を暗闇坂とするし、六本木の芋洗坂でも、大正にできた新道を芋洗坂としています。
また、江戸時代からの坂道の下部が消滅した小石川の(西)富坂、江戸時代からの坂道が完全に消滅した永田町の茱萸坂、信濃町駅そばの千日坂でも、新道に江戸時代からの坂名を付けています。
一方、壱岐坂では、「現在壱岐坂とよんでいるのは大正大震災改正された道路である。」としながら、改正された道路ではなく江戸時代からの壱岐殿坂を壱岐坂としています。
これらからすると、石川悌二は新しい坂の名前はどうあるべきかという定見がなかったのでしょう。
この石川悌二の本が影響したようで、石川悌二が江戸時代からの坂名を付けた新道に、各区も江戸時代からの坂名を付けた標識を建てています。
四谷の暗闇坂だけは、標識を新道のほうに建てたことがあるか確認できませんでしたが、1981年の新宿区史蹟地図(新宿区教育委員会)では、昭和の新道を暗闇坂としていました。
新宿区はすぐに誤りと気付いたようで、1982年の新宿区史蹟地図(新宿区教育委員会)で訂正され、古いほうの階段の坂道の上に標柱を建て、階段を暗闇坂とする新宿区のページも作成されています。今では、古い方の階段の坂道を暗闇坂としている人の方が多くなっているようですが、坂学会はいまだに新しいほうの坂道を暗闇坂としています。
また、新宿区は、信濃町駅のそばの千日坂について、かつての千日坂は消滅し、現在のは新千日坂であることを、標柱やホームページで説明されています。標柱やホームページのタイトルも新千日坂にはなってはいないですが、江戸時代からある坂と誤解する人はいないでしょう。タイトルを新千日坂としていないのは、芋洗坂や茱萸坂のように、新を付けないという他の区との取り決めがあるからかもしれません。
港区は、六本木の芋洗坂の標柱を新道に建てた少し後に誤りであると気付きながら、誤った標柱を建て続けています。誤った情報を流し続けるなんて、地方自治体としてあるまじき行為と思われます。
文京区は、本郷の東富坂では、新道を東富坂とし、江戸時代からの坂を旧東富坂としています。石川悌二が新道を東富坂としているのに忖度したのでしょうか、壱岐坂と東富坂で、異なる名前付けをしています。
また、文京区は、(西)富坂の新道に建てた標識で、『紫一本』を引用して、まるで江戸時代からある坂であるかのような説明をしています。江戸時代からの富坂の下部は消滅したことを説明しないと、読む人に誤った情報を伝える不十分な内容の説明と思われます。
千代田区も、茱萸坂について、江戸時代からあった坂かのような説明をしています。こちらも江戸時代からの茱萸坂は消滅したことを説明しないと、読む人に誤った情報を伝える不十分な内容の説明と思われます。
石川悌二の、歴史をないがしろにする名前付けに、半世紀以上引きずられて、新宿区を除く各区は恥ずかしくはないのでしょうか。今からでも新しい坂道には「新」を付けるなどして、江戸時代からの古い坂道と区別することが求められています。
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