私が歩くために作成したGoogleマイマップでの西国三十三所巡礼の地図です
歩いた後で、手直ししたところもありますが、歩きづらいところもあるので、ご注意ください。詳細はこちらのサイトです
江戸町づくしに、「地蔵坂 白山に有之」とあります。他の江戸の地誌や絵図には、この坂についての記述が見当たりません。
名の知られた地蔵のあるところの坂と思い、白山の地蔵を探してみます。
武江図說をみると、嚴淨院専称寺に子安地蔵尊、浄土寺に地蔵尊があったようですが、八百屋お七の墓がある円乗寺の所には地蔵のことが書かれていません。江戸時代には円乗寺には地蔵がなかったと当初は思っていました。
遊歴雑記にお七の墓のことがあったのを思い出して見てみると、「小さき石地蔵の左右に死後の法名を記せり」とありました。円乗寺にも地蔵があったようです。
嚴淨院専称寺の前は坂になってはいませんが、浄土寺と円乗寺の前は坂になっていて、円乗寺の前は、浄心寺坂と呼ばれています。
浄土寺の地蔵尊よりお七の墓のほうが、ずっと有名だったのではないでしょうか。淨心寺坂の別名が地蔵坂だったのではないかと思いました。
明治の書物と思われる改正東京名細記 : 一名・独案内に、「八百屋於七ノ墓 地藏坂上円乗寺ニアリ俳優岩井半四郎ノ建立ナリト云」とあり、次のページの地図の淨心寺坂のところに「地ザウ坂」とあります。江戸時代も淨心寺坂の別名が地蔵坂だったのでしょう。
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牛込に袖摺坂という坂道があり、新宿区もホームページで紹介されています。
てくてく神楽坂さんが、袖摺坂、蛇段々、南部坂(新蛇段々)で詳細に説明されていますが、蛇段々という別の坂道が袖摺坂とされていたことがあったようです。この話に付け加えたいことがあります。
定年時代坂のある街 平成20年7月号によると、新宿区が今のところに標柱を設置したのは1982(昭和57)年で、それ以前の2年間は坂下の大久保通りを挟んだS字状の坂に、袖摺坂の標柱があったそうです。てくてく神楽坂さんのページに、矢代和也さんと穂積重行さんの話がでてきますが、新蛇段々に標柱が建てられた後に書かれたもので、標柱により蛇段々が袖摺坂と信じ込んで書いた蛇段々の思い出話なのでしょう。
てくてく神楽坂さんのページの鳥居さんの話のなかで、新撰東京名所図会に、袖摺坂が「箪笥町の東、岩戸町界にあり」とあることについて書かれていますが、これは、明治23年の東京地理沿革誌 : 一名・東京字典の内容を使ったもので、明治23年の岩戸町の範囲を明らかにしないと話になりませんし、そもそも蛇段々は岩戸町内にあり、箪笥町からは離れていて、境にある袖摺坂ではありえません。また、御府内備考について、「肴町境」といわれても、どこを指すのか理解しにくく、御府内備考を書いた人さえ町の境界について十分認識していたのかどうか、という疑問があることが書かれていますが、御府内備考は箪笥町の人が書いた町方書上をもとに書かれたものであり、箪笥町の境界を認識して書かれていないはずがありません。取るに足らない主張です。
1970年の横関英一著「江戸の坂東京の坂」に、「袖摺坂 新宿区岩戸町から北町と袋町との境を南へ上る坂」とあり、これが、蛇段々を袖摺坂とする最初の書物のようです。横関さんは、新撰東京名所図会や御府内備考も参照しながらこの本を書かれたようですが、なぜ間違えたのでしょうか。
ここからは、想像になりますが、横関さんは、いろいろな坂道について、地元の人の話を聞いたりしていて、その中に鳥居さんも含まれていたのではないでしょうか。蛇段々が袖摺坂と強く主張されて、そちらを採用したのではないかと想像します。鳥居さんも、引っ込みがつかなくなり、蛇段々が袖摺坂との主張をし続けているのではないでしょうか。
ただ、いまとなっては真相はわかりません。
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新編江戸志に、「姫下坂 同所 里談に云渋谷長者の姫常は乗物にて供人大勢具して往来せしか故ありて此坂をひとり行し事あり夫より坂の名とするとなり」とあり、その前に、「長者の墓 長者丸 里談に云松前氏屋敷の内にあり垣結まわして小高き墳也上には松樹なと生茂りてあり 貞雄か云此墓丹羽家の屋敷の内にありと語りし人あり何れる謀なるやしらず」とあります。
また、武江図説にも、同様のことが書かれています。

御府内場末往還其外沿革圖書の絵図です。今の長者丸通りに長者ヶ丸とあり、長者丸通りの左の中程に丹羽家の屋敷があり、下の方に松前家の屋敷があります。
渋谷長者の屋敷はこのあたりにあったのでしょう。
姫下坂は、絵図の一番下の方に坂と書かれている所になるでしょう。長者丸通りを東南に行けば坂道として今も残っています。
1970年の「江戸の坂東京の坂」に、姫下坂について、今の北坂がその跡であろうかとし、北坂を根津美術館に上る坂としていますが、根津美術館に上る坂は、赤坂区史によると明治32年に開かれ北坂と称された坂で、江戸時代からある姫下坂とは明らかに違います。
この間違いが、坂学会でも引き継がれ、姫下坂を北坂の別名としています。
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万世江戸町鏡に、「車坂、屏風坂、信濃坂、稲荷坂、清水坂」とあり、その後に「右ハ上野御山門あり」と注釈が付けられています。
慶應4年の、上野の図がありました。

普門院と常照院の間から清水堂のほうに上る、坂下に門がある坂が描かれています。この坂が、清水坂ではないかと思われます。
尾張屋板江戸切絵図にもこの道は描かれています。
このあたりが描かれた江戸名所図会には、この坂は描かれていませんし、江戸砂子の挿図にもこの坂は描かれてていません。
1680年の江戸方角安見圖がありました。

左の方の弘文院のところから下る坂が描かれています。細い道で、江戸名所図会や江戸砂子では描かれていなかったのかもしれません。
武江図說に、「清水坂 天神裏通り」とあります。この坂の下の通りを、図の牛天神(五條天神のこと)の裏通りとしているようです。
清水堂は、この図の右の方に描かれていますが、元禄7(1694)年9月に現在地に移築されています。移築される前のこの坂は、清水坂とは呼ばれていなかったでしょう。
この坂は、大正10年の地図にも描かれていますが、戦後には消滅しています。場所は、Googleマップの5-4清水坂になります。大正の頃は櫻谷坂とも呼ばれていたようです。
1970年の「江戸の坂東京の坂」で、清水堂に上る三十一段の石段としていますが、京都に倣って清水堂を建てたそうで、京都では、本堂の方に上る石段を清水坂としていないので、この石段も清水坂ではないと思われます。
松本さんが江戸坂見聞録で詳しく説明されていますが、これらの坂とは別に、江戸初期に谷中道に清水(しみず)坂があったようですが、元禄から宝永(1688~1711)にかけての寛永寺の拡張により消滅し、新たな谷中道の坂は、『東京府志料』(明治5~7)は無名の坂だとしているそうです。
松本さんは、江戸町鏡の清水坂は、新たな谷中道の坂ではないかとされていますが、江戸町鏡に併記されている坂は、門を通って上野の御山に入ったところの坂と説明されているのであり、清水門の外にあり、清水門を通らずに谷中にいくことができる、新たな谷中道の坂ではないと思われます。
新たな谷中道の坂は、「新撰東京名所図会」が、清水坂としていますが、江戸時代の書物にはこちらを清水坂としたものはありません。台東区はこの坂に清水坂の標柱を建てています。
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武江図說に、「開耶姫社 俗ニ桜姫稲荷と云 金乗院持 高田雲雀に云祭神此花咲夜姫桜姫と云あやまりより前の坂を清玄坂と云是も浅間塚なるを清玄塚と誤る也」とあり、江戸名所図会には、宿坂関之旧地の項の次に、「 木花開耶姫社 同所小坂の中腹にあり。土俗八兵衞稻荷、或は開耶姫稻荷とも稱す。又當社を櫻姫の宮と唱へ、此坂を淸玄坂と呼ぶ。按ずるに、富士淺間宮の祭神は、木花開耶姫なれば、淺間坂といひしより、かく謬傳せし事わらふに堪へたり。當社の額木花開耶姫命の六字は、水戶黄門光國卿の親筆なり。今別當金乘院に傅ふ。」と書かれています。

この下高田村絵図の真ん中あたりに稲荷が描かれ、ここが開耶姫社になります。御府内場末往還其外沿革圖書を見ると、久貝家のあったところは、その後新見家の屋敷になり、稲荷は新見家の屋敷に取り込まれたようです。
明治20年 : 東京近傍中部を見ると、新見家の西の道を下ったところあたりに神社の印があり、稲荷はこちらに一旦移設されたかもしれませんが、地図の誤りかもしれません。
その後、明治四十一年九月の学習院の移転に伴い、稲荷は目白駅のそばに遷座されています。

江戸時代に稲荷のあった場所は、この明治42年測図を見ると、学習院の東南隅の斜面の下に平坦になっている場所があり、このあたりだったのではないかと思われ、復元・江戸情報地図も、同様の場所としています。
この場所は、今は豊島区立千登世橋中学校になっています。
江戸紀聞に、「稲荷坂 久貝坂とも云、久貝家の屋敷の前の坂也」とあります。上の下高田村絵図を見ると、久貝家の東のところに門の印が消えかかってはいるけどあるようで、久貝家の前というと東の清玄坂になります。清玄坂は、稲荷坂とも久貝坂とも呼ばれていたようです。
迅速地図に、それらしいところに点線で道が描かれていて、私の想定する清玄坂の道筋は、Googleマップの8-25清玄坂になります。
清玄坂は完全に消滅していますが、学習院の中には、いろんな史蹟が残っています。上の村絵図の久貝家と中川家の間の坂道は、大体、軟式テニスコートの傍から馬場に下る坂道になりますし、富士見茶屋跡から下る溜坂(富士見坂)の痕跡も残っています。見学可能ですので、江戸の坂に興味のある人にお勧めします。
参考になる動画がありましたが、中村さんは、溜坂を富士見坂とは別の坂と誤解されているようです。また、稲荷坂は久貝家と中川家の間の無名坂よりもうちょっと向こうの坂かもとしながら、無名坂の傾斜や幅を測定されています。
1970年の「江戸の坂東京の坂」では、江戸名所図会の同所小坂を宿坂のことと読み違えたようで、清玄坂(浅間坂)を宿坂の別名と間違え、坂学会は、この間違いを引き継ぐだけでなく、浅間(せんげん)を「あさま」と読み違えています。
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1970年の横関英一著「江戸の坂東京の坂」の「昔の坂と今の坂」の項で、横関英一さんは、壱岐坂をあげて、「昔の坂が、はっきりと残っているからには、その坂を無視することはいけない。新しいほうの壱岐坂にしても、壱岐坂と名のること自体、せんえつで、坂が残っている以上は、その坂の名は壱岐坂であって、新しくできた坂は、「新壱岐坂」と称すべきであろう。新壱岐坂は最近できた新坂であるから、江戸の坂ではない。江戸の坂は古いほうの壱岐坂である。」と考えを述べておられます。
歴史をないがしろにするだけでなく、壱岐坂が二つあれば混乱することにもなるので、当然の考え方であって、1980年の「ぶんきようの坂道」p.28,29では、古いほうを壱岐坂、新しい方が新壱岐坂とされ、今では、文京区はそれぞれの坂に標柱を建てています。ただ、新壱岐坂の道が「壱岐坂通り」とされ、壱岐坂通りが交差点名にもなっているので、新壱岐坂を壱岐坂と間違える人もいるかもしれません。
1971年に「東京の坂道 : 生きている江戸の歴史」を書いた石川悌二は、横関英一さんとは考えが違っていたようです。
本郷の東富坂では、「現在の東富坂は市外電車を開通するために改正された坂路で、それ以前の東富坂は・・・」としながら、改正された坂道のほうを東富坂とするし、四谷の暗闇坂でも、江戸時代から続く暗闇坂ではなく、昭和の初めにできた迂回路を暗闇坂とするし、六本木の芋洗坂でも、大正にできた新道を芋洗坂としています。
また、江戸時代からの坂道の下部が消滅した小石川の(西)富坂、江戸時代からの坂道が完全に消滅した永田町の茱萸坂、信濃町駅そばの千日坂でも、新道に江戸時代からの坂名を付けています。
一方、壱岐坂では、「現在壱岐坂とよんでいるのは大正大震災改正された道路である。」としながら、改正された道路ではなく江戸時代からの壱岐殿坂を壱岐坂としています。
これらからすると、石川悌二は新しい坂の名前はどうあるべきかという定見がなかったのでしょう。
この石川悌二の本が影響したようで、石川悌二が江戸時代からの坂名を付けた新道に、各区も江戸時代からの坂名を付けた標識を建てています。
四谷の暗闇坂だけは、標識を新道のほうに建てたことがあるか確認できませんでしたが、1981年の新宿区史蹟地図(新宿区教育委員会)では、昭和の新道を暗闇坂としていました。
新宿区はすぐに誤りと気付いたようで、1982年の新宿区史蹟地図(新宿区教育委員会)で訂正され、古いほうの階段の坂道の上に標柱を建て、階段を暗闇坂とする新宿区のページも作成されています。今では、古い方の階段の坂道を暗闇坂としている人の方が多くなっているようですが、坂学会はいまだに新しいほうの坂道を暗闇坂としています。
また、新宿区は、信濃町駅のそばの千日坂について、かつての千日坂は消滅し、現在のは新千日坂であることを、標柱やホームページで説明されています。標柱やホームページのタイトルも新千日坂にはなってはいないですが、江戸時代からある坂と誤解する人はいないでしょう。タイトルを新千日坂としていないのは、芋洗坂や茱萸坂のように、新を付けないという他の区との取り決めがあるからかもしれません。
港区は、六本木の芋洗坂の標柱を新道に建てた少し後に誤りであると気付きながら、誤った標柱を建て続けています。誤った情報を流し続けるなんて、地方自治体としてあるまじき行為と思われます。
文京区は、本郷の東富坂では、新道を東富坂とし、江戸時代からの坂を旧東富坂としています。石川悌二が新道を東富坂としているのに忖度したのでしょうか、壱岐坂と東富坂で、異なる名前付けをしています。
また、文京区は、(西)富坂の新道に建てた標識で、『紫一本』を引用して、まるで江戸時代からある坂であるかのような説明をしています。江戸時代からの富坂の下部は消滅したことを説明しないと、読む人に誤った情報を伝える不十分な内容の説明と思われます。
千代田区も、茱萸坂について、江戸時代からあった坂かのような説明をしています。こちらも江戸時代からの茱萸坂は消滅したことを説明しないと、読む人に誤った情報を伝える不十分な内容の説明と思われます。
石川悌二の、歴史をないがしろにする名前付けに、半世紀以上引きずられて、新宿区を除く各区は恥ずかしくはないのでしょうか。今からでも新しい坂道には「新」を付けるなどして、江戸時代からの古い坂道と区別することが求められています。
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