江戸の坂・その28 -納戸坂-

江戸町づくし(1821)に、「納戸坂 小石川に有」とあります。小石川に納戸という地名はみあたりません。そこで探すと、牛込に御納戸町がありました。

御府内備考の御納戸町のところに、慶長11年に御納戸同心60人が召し抱えられ、元和6年小石川元吉祥寺の近所に屋敷が与えられた。寛永16(1639)牛込元天龍寺前へ移転。徐々に市谷長延寺・土取場町鷹匠町・小石川御釆園場にも拝領地が増える。ここは天龍寺境内だったが、寛永11年と翌年に2万6千坪が召上られ残り1万坪が天龍寺になった。この上地部分が御納戸町になったので、天龍寺前ともいうことが書かれています。

 

本郷区史によると、小石川元吉祥寺は府立工芸学校(今の都立工芸高等学校)のあたりにあったそうですが、御納戸同心大縄地が移転して百数十年経っての江戸町づくしに書かれた納戸坂は、そのあたりの坂ではないと思われます。

 

小石川御釆(薬の誤り?)園場の拝領地を調べてみましたが、それらしいものが見つかりません。探していると、小日向に御納戸同心大縄地がありました。下の絵図の左下です。

御府内沿革図書

ここには、音羽から鼠坂を上って行くことになるので、小石川が小日向の誤りだったとすると、鼠坂の別名が納戸坂になります。

 

小石川が市ヶ谷の誤りだったかもしれません。牛込の御納戸町に、市ヶ谷から上って行く坂がいくつかあります。浄瑠璃坂もその一つです。

遠くにありて (講談社文芸文庫. 現代日本のエッセイ)に、「御納戸坂をおりきった角に英文学の馬場孤蝶先生の二階家があった。」とあり、新宿区図書館によると、馬場孤蝶は明治41年~明治42年頃、市谷田町2-1に住んでいたそうで、丁度、浄瑠璃坂をおりきったところになります。江戸時代にも浄瑠璃坂の別名が納戸坂だったかもしれません。

 

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江戸の坂・その27 -2つの御太刀坂-

1751年の再板増補江戸惣鹿子名所大全に、「御太刀坂 下渋谷笄橋堀田家の御屋敷と山口家の御やしきの間の坂なり・・」とあります。また、1700年代末の武江図説や、1821年の江戸町づくしでも、同様に御太刀坂は堀田家と山口家と間の坂としています。


御府内場末往還其外沿革圖書(右が北)に、堀田家と山口家が描かれています。

 

Googleマップに堀田坂とあるところから港区立高陵中学校に沿って上っていく坂になりますが、上りだしのところが堀田坂になっています。

 

Googleマップと御府内場末往還其外沿革圖書には、少し北に御太刀坂と書かれています。
天保14年に、吉田胖十郎が笄橋御太刀坂上から笄橋牛坂に移り、その後に近藤與左衛門が移ったことが東京市史稿 市街編40に書かれていて、上の御府内場末往還其外沿革圖書に、両家の場所も描かれています。近藤與左衛門の屋敷のところが、御太刀坂上になります。江戸後期の幕府の普請奉行は、こちらの坂を御太刀坂としていたようです。

 

明治35年の新撰東京名所図会には、「御太刀坂 笄町の南端を笄川の方より豊多摩郡の境線に沿ふて上る坂をいふよし・・・」とあり、堀田家と山口家と間の坂のことを言っています。昭和16年の麻布区史でも、「御太刀坂 百四十番地澁谷區境の坂」とし、
昭和35年の港区史でも、「百四十番地澁谷区境で渋谷区側に堀田下屋敷があったので堀田坂ともいう」としていて同様です。

御府内場末往還其外沿革圖書の御太刀坂は、人々の間にあまり広まってはいなかったようです。

 

これに対し、昭和16年の麻布区詳細図には、御府内場末往還其外沿革圖書の御太刀坂のところに、御太刀坂の表記があります。

昭和49年の続・麻布の名所今昔では、「現地の人は堀田坂より北の、牛坂と平行な坂をさしている、と言い」と、御府内場末往還其外沿革圖書の御太刀坂を御太刀坂としていますが、現地の人というのは、多くの人にヒアリングしたのでしょうか、たまたま昭和16年の麻布区詳細図を見たことのある人に聞いただけだったのかもしれません。明治から昭和の書籍のほとんどが、堀田家と山口家と間の堀田坂を御太刀坂としているし、笄町に幼少期に住んでいた大岡昇平の著書である幼年に、「赤十字病院の北側に沿って上る御太刀坂という坂道は、・・」とあり、堀田家と山口家と間の堀田坂を御太刀坂としているので、続・麻布の名所今昔の話は、あまり信用できる話ではありません。

 

港区は、令和5年に御府内場末往還其外沿革圖書の御太刀坂に御太刀坂の標柱を建てましたが、堀田坂ともいわれた御太刀坂が別にあることを示していませんし、堀田家と山口家と間の御太刀坂に、堀田坂の標柱を建てていますが、御太刀坂とも呼ばれていたことを示していません。
昭和35年の港区史に書かれたことを意図的に無視しているのでしょうか。江戸時代から昭和まで堀田坂が御太刀坂と呼ばれていたことを無視するなんて、港区職員のあまりの不勉強さにあきれ果てています。

 

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江戸の坂・その26 -水道橋の富士見坂-

武江図説に、「富士見坂 水道橋上石丸家表門前を云」とあります。

明和江戸図

1771年の江戸図から水道橋付近の石丸家を探します。上水樋の右側に石マルとあり、江戸図の左下の皀角坂の上のところにも石マルとあります。

後者は、水道橋から遠いので、水道橋上石丸家ではないと思われます。

前者は、小栗坂とか三崎稲荷と並んで武江図説に書かれていて、川向こうの本郷元町のことになるのですが、川向こうになることを水道橋と表現したらしく、こちらの前の坂道が富士見坂と思います。

 

明治40年の最近東京明覧、大正2年の神田の伝説、昭和10年の神田文化史、1982年の千代田区の文化財などでも、さいかち坂の対岸にあるこの坂を富士見坂としており、江戸時代から戦後に至るまで、こちらの坂が富士見坂で間違いないようです。

江戸時代の錦絵にも、この坂から富士山が描かれたものがあります。

不二三十六景 東都水道橋(歌川広重)

東都名所 御茶之水(歌川広重)  東京都立図書館

この石丸家前の富士見坂に、お茶の水坂という標識を文京区教育委員会が建てていますが、江戸時代の書物からはお茶の水坂という坂の名前は見出せませんでした。

また、ぶんきょうの坂道では、新撰東京名所図会を根拠に建部坂の東の坂を富士見坂としていますが、江戸時代には両側に武家屋敷があっただろうから、南向きのこの坂からよく富士山が見えるわけがありません。ぶんきょうの坂道では、「江戸時代には高い建物もなく、」としていますが、武家屋敷が大人の背丈より低いというような、まるで子供だましの常識外れの説明をしています。また、新撰東京名所図会には、「富士見 油坂の北にありて、東に上るを富士見坂といふ。」とあり、ぶんきょうの坂道が富士見坂とする北に上っている坂の説明と齟齬をきたしています。江戸の坂・その25に書きましたが、新撰東京名所図会の記載は誤りです。

 

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江戸の坂・その25 -揚場坂-

    武江図説に、揚場坂として「お茶の水より元町へ上る坂を云 此川端を上場といふ 船荷を上る所也」とあります。

近江屋板江戸切絵図

お茶の水から元町に行く道には、この絵図の、建部家と松井家の間の坂道、内田家と稲垣家の間の坂道、前田家と内藤家の間の坂道の3本の坂道があります。

 

前田家と内藤家の間の道は、元町と竹町の境になるので、単に元町に上るとはいわないでしょうし、このあたりの竹町の揚場は東南に弐丁ほど離れたところにあったようで、揚場から遠いことからも、揚場坂ではないと思われます。

文京区教育委員会は、前田家と内藤家の間の道に油坂(揚場坂)の標識を建てていますが、揚場坂ではなかったと思われます。

 

あとの二つの道はいずれも坂道で、いずれが揚場道と呼ばれていたのでしょうか。

東京図測量原図

東京図測量原図に、川端からお茶の水の道まで荷揚げする道が描かれていました。江戸時代中期から、ここに荷揚げ道があった確証はないのですが、この道つづきに上る建部家と松井家の間の道が揚場坂であったのでしょうか。この坂道は、上の絵図にタテフサカとあるように、建部坂とも呼ばれてました。

江戸方角安見図

1680年の絵図がありました。こちらにも川端からお茶の水の道まで荷揚げする道が描かれていました。武江図説より100年ほど前になります。このころは二か所に荷揚げできたようで、建部家と松井家の間の道、内田家と稲垣家の間の道のどちらからも近いですが、前田家と内藤家の間の道からは少し離れています。

 

陸軍省からの求めに応じて、東京府が明治5~7年に調査して作成した東京府志料の本郷元町一丁目のところに、「油坂 東竹町との間を南へ下る 富士見坂 油坂のにあり 建部坂 町内富士見坂のにあり 無名坂 相生坂の通りより水道橋外へ下る」とあり、油坂、富士見坂、建部坂については、明治23年の東京地理沿革誌、明治40年の新撰東京名所図会に同じ内容が引き継がれています。

油坂というのは竹町との間を南へ下る坂だから、文京区教育委員会が油坂の標識を建てた前田家と内藤家の間の道になります。また、無名坂は、水道橋のほうから建部坂の坂下まで上ってくる坂になりますが、江戸の坂・その26に示すように、江戸時代には富士見坂と呼ばれてました。

 

油坂とされた前田家と内藤家の間の道の北には元町一丁目に坂らしい坂道はありません。北は西の誤りのようですが、このような明らかな誤りをなぜしたのでしょうか。

また、北を西とすると、内田家と稲垣家の間の道が富士見坂になりますが、両側に武家屋敷があっただろうから、南向きのこの坂からよく富士山が見えるわけがありません。江戸時代から富士見坂と呼ばれている坂を無名坂として、富士山が見えない道を富士見坂としているのも大いに疑問です。

東京府に調査の報告書を提出するときに、よからぬことがあったに違いありません。

 

東京府の調査に反感を抱いた人が、意図的に嘘を書き並べたのかもしれません。そうすると、揚場坂を油坂と呼び名を意図的に間違えた可能性もありますし、油坂は揚場から遠かったので、場所も意図的に変更した可能性もあるでしょう。

本当は、水道橋のほうから建部坂の坂下まで上ってくる坂が富士見坂、建部家と松井家の間の坂が建部坂、内田家と稲垣家の間の坂が揚場坂、前田家と内藤家の間の坂は無名坂ではなかったかと思えてきました。

また、内田家と稲垣家の間の道に住んでいた町の有力者が、自分の家の前の坂の名前を富士見坂にしようと横やりを入れ、東京府への報告書の坂名の順序や名前を書き換えさせたが、そのとき、報告の担当者は反感を抱いて、提出する報告書の西を北に陰で書き換えたなんてことも考えられます。

 

とりあえず、内田家と稲垣家の間の道を揚場坂としておきます。

 

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江戸の坂・その24 -掃除坂-

赤坂に稲荷坂という坂道があり、坂の上に江戸城中清掃役の町があり掃除坂ともいうとされています。

 

東京都港区近代沿革図集 赤坂・青山で、江戸時代の書物などを検討して、掃除坂は稲荷坂の別称と考えてよいのではなかろうかという結論に至っています。

 

この結論について、気になる点が2点あります。

1つは、増補江戸惣鹿子名所大全の記載が1つの根拠になっているのですが、再板増補江戸惣鹿子名所大全で、その内容が書き換えられていることです。

前者では、「掃除坂 青山大膳頭殿屋敷のうしろなり将軍家の掃除の衆家居する所なり、此坂の右のうらに稲荷の社あり掃除町のいなりといふ。」とありますが、後者では、「掃除坂 青山の内青山殿御屋敷うしろの坂也」となっています。

青山の青山殿御屋敷というと、今の青山霊園一帯を含む広い敷地にあった青山大膳頭殿屋敷になるでしょうから、前半部分は実質変わってません。ところが、前者の後半部分が全部削除されています。このことは、将軍家の掃除の衆家居する所ではなく、また、坂の右裏に稲荷はなかったから訂正したと考えられます。

もう1つは、上のGoogleマップの稲荷坂が青山大膳屋敷のうしろといえるのかです。御府内沿革図書をみると、再板増補江戸惣鹿子名所大全が出版されたころには、稲荷坂あたりには青山大膳屋敷の敷地はなくなっていますし、後ろというと今の青山霊園の南西の方向になると思えます。

 

ほかの掃除町を探してみると、渋谷御掃除町が見つかりました。将軍家ではなく、増上寺の掃除役のようです。

尾張屋板江戸切絵図

笄川から御掃除町まで長谷寺に沿って上りの坂道になっていて、青山大膳屋敷のうしろともいえるのではないでしょうか。こちらが掃除坂だと私は結論付けました。

 

今でもこの道は残っていますが、上に首都高が通る広い道になってしまっています。

 

Googleマップには笄坂と表示されています。明治の文献に笄坂とあり、明治時代にはこの坂を笄坂と呼んでいたようです。

 

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江戸の坂・その23 -幸國寺坂-

御府内備考に幸國寺坂として、「幸國寺坂は、市兵衛町より、赤坂へゆく坂なり、江戸鹿子に、當町の庄を市兵衛とよぶ故に、又市兵衛坂とも云といへり。」とあります。

同じページには、道源坂として、「谷町道源寺と、組屋鋪の間の坂なり。」とあり、次のページには、流埀として、「市兵衛町より赤坂氷川社の方へ下る坂をいふ。」とあります。

近吾堂板江戸切絵図

市兵衛町付近の江戸切絵図です。

上の方に坂印△が描かれ、ナダレト云とあります。ここが御府内備考の流埀です。その下の伊藤家と横田家の間から麻布谷町に行く道に坂印があり、さらにその下の道玄寺のところに坂印があり、阿部家と松平家の間から麻布谷町に行く道に坂印があります。

道玄寺のところの坂印が道源坂になるので、幸國寺坂となるのは、残りの二つの坂道のいずれかになりますが、阿部家と松平家の間から麻布谷町に行く道は、明治の地図では霊南坂町と市兵衛町の境であり、「市兵衛町より、赤坂へゆく坂」というにはそぐわない感じがします。伊藤家と横田家の間から麻布谷町に行く道の坂印が幸國寺坂ではないかと思います。

 

 

今では、この坂の上部だけが御組坂と名付けられて残っていて、下部は泉ガーデンタワー建設の時に消失したようです。

 

横関英一は、「江戸の坂東京の坂」(1970)で、何の根拠もなくナダレのことを幸国坂とし、なだれ坂ともいうとし、港区もこれを引き継いでいますが、御府内備考も再板増補江戸惣鹿子名所大全も幸国坂となだれ坂を別個に書いているので、常識的に考えれば、なだれ坂の別名を幸国坂とすることは誤りで間違いです。

 

御組坂という名前がいつ付けられたものか興味がわきますが、国会図書館デジタルで調べた範囲で、一番古い書物は昭和6年の「麻布鳥居坂警察署誌」でした。明治から大正にかけて、誰かが御組坂と呼び始めたのでしょうか・・・

 

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江戸の坂・その22 -長延寺坂-

[江戸時代の長延寺坂]

新編江戸安見図

江戸時代の市ヶ谷付近の絵図です。今と比べてみましょう。

 

絵図では、八幡宮から東に、サナイサカ(左内坂)、長エンシサカ(長延寺坂)、上ルリサカ(浄瑠璃坂)と並んでいますが、グーグルマップでは長延寺坂が絵図の長延寺坂を上がった上から左へ入る脇道になっています。

 

御府内備考の田町壱丁目のところには『坂:登拾間程幅三間程、右は竈(へっつい)横町より長延寺谷町エ上り候坂にて、坂名は之無、尤も御武家屋敷境にて町内持の場所にては之無候」とあります。

この御府内沿革図書の絵図の、火消御役屋敷と水野對島守の間にある坂のことになります。坂の下の田町一丁目のところがへっつい横丁になります。田町一丁目の町方では、長延寺坂という名前は広くは知られていなかったようです。

 

1917年の内村鑑三の文書や、1933年の民政 7(12)の文書では、市ヶ谷加賀町にある秀英舎第一工場や、原夫次郎邸に行くのに長延寺坂を通ったことが書かれていて、大正から昭和にかけても、江戸安見図の長延寺坂の名前がそのまま使われていたようです。

 

また、1975年の歴史と旅 2(11)(23)にも、「同一丁目の中ほどから長延寺門前(市ヶ谷長延寺町の内)へ上る坂を長延寺坂、一にヘッツイ横丁といった。」とあるようです。

 

芥坂の別名が長延寺坂であると間違えた]

明治40年の東京案内 下の市谷長延寺谷町のところには、「町北鷹匠町に上る坂を闇夜坂一に芥坂と称す」と、長延寺谷町には闇夜坂(芥坂)があることだけが書かれています。

一方、東京案内 上に、「長延寺谷町 長延寺坂あり。坂下は古の長延寺谷。」とあります。江戸時代からある長延寺坂は、砂土原町と左内坂町の境にあり、長延寺谷町にないので、長延寺谷町のところにあるこの説明は、間違えて書いたようですが、東京案内 下の記載と併せて読むと、闇夜坂(芥坂)のことを長延寺坂といっていると誤解させるような説明になっています。

 

この本を見たか、1970年の江戸の坂東京の坂や1976年の新宿区町名誌:地名の由来と変遷(新宿区教育委員会)では、芥坂の別名が長延寺坂としています。

 

[長延寺内の参道が長延寺坂???]

昭和56年の新宿区史蹟地図(新宿区教育委員会)に、長延寺内の参道であったところに長延寺坂と書かれています。グーグルマップに表示される長延寺坂の位置です。新宿区教育委員会は、芥坂の別名が長延寺坂としたことが間違いであったことに気づいたようですが、新たな間違いを生み出したようです。

 

この坂には、「昔,この坂上に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々が,この坂を通ったことから自然にそう呼ばれるようになったという。平成三年九月 東京都新宿区教育委員会」とある木の標柱が建てられていたそうですが、今は金属製の長延寺坂の標柱が建てられ、同様のことが書かれているそうです。

また、新宿区は長延寺坂のページでも、長延寺内の参道であった道の紹介をしています。

 

新宿区のホームページに、意見を書き込めるところがあったので、間違いではないかと指摘させていただいたところ、間違えていたので直していく旨のご連絡がありました。

(2026.6.17 新宿区の長延寺坂のページは訂正されていました。)

 

[新宿区の対応について]

昭和56年の新宿区史蹟地図(新宿区教育委員会)は、横関英一 著 「江戸の坂東京の坂」や、石川悌二 著 「東京の坂道 : 生きている江戸の歴史」などを参考に、坂道を特定されたようで、これらの書籍の誤りを引き継いだりして、長延寺坂のほか、24暗闇坂、49袖摺坂、74弁天坂なども間違っていました。

新宿区は誤りのあった坂道について、標柱を立て直すなどの苦労をいとわず訂正されていたようですし、今回の長延寺坂も素早く対応していただいて、立派というほかありません。

 

これに対し、港区は芋洗坂について、「正しくは現在の六本木6丁目1~2番と6~7番との間を西の方へ上る道をいったが、六本木交差点への道が大正以降にできて、こちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。」と、間違ったところを芋洗坂としたことについて、港区が標柱を建てて、市民の間に間違った芋洗坂を広めておきながら、「こちらをいう人が多くなった」と居直っており、図々しいというか恥ずかしいというか何でしょうか。

正しいことを市民に伝えなければならないという行政の基本を忘れて、港区は半世紀以上にわたって間違いをいまだに広めています。

 

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