[江戸時代の長延寺坂]

新編江戸安見図
江戸時代の市ヶ谷付近の絵図です。今と比べてみましょう。
絵図では、八幡宮から東に、サナイサカ(左内坂)、長エンシサカ(長延寺坂)、上ルリサカ(浄瑠璃坂)と並んでいますが、グーグルマップでは長延寺坂が絵図の長延寺坂を上がった上から左へ入る脇道になっています。
御府内備考の田町壱丁目のところには『坂:登拾間程幅三間程、右は竈(へっつい)横町より長延寺谷町エ上り候坂にて、坂名は之無、尤も御武家屋敷境にて町内持の場所にては之無候」とあります。

この御府内沿革図書の絵図の、火消御役屋敷と水野對島守の間にある坂のことになります。坂の下の田町一丁目のところがへっつい横丁になります。田町一丁目の町方では、長延寺坂という名前は広くは知られていなかったようです。
1917年の内村鑑三の文書や、1933年の民政 7(12)の文書では、市ヶ谷加賀町にある秀英舎第一工場や、原夫次郎邸に行くのに長延寺坂を通ったことが書かれていて、大正から昭和にかけても、江戸安見図の長延寺坂の名前がそのまま使われていたようです。
また、1975年の歴史と旅 2(11)(23)にも、「同一丁目の中ほどから長延寺門前(市ヶ谷長延寺町の内)へ上る坂を長延寺坂、一にヘッツイ横丁といった。」とあるようです。
[芥坂の別名が長延寺坂であると間違えた]
明治40年の東京案内 下の市谷長延寺谷町のところには、「町北鷹匠町に上る坂を闇夜坂一に芥坂と称す」と、長延寺谷町には闇夜坂(芥坂)があることだけが書かれています。
一方、東京案内 上に、「長延寺谷町 長延寺坂あり。坂下は古の長延寺谷。」とあります。江戸時代からある長延寺坂は、砂土原町と左内坂町の境にあり、長延寺谷町にないので、長延寺谷町のところにあるこの説明は、間違えて書いたようですが、東京案内 下の記載と併せて読むと、闇夜坂(芥坂)のことを長延寺坂といっていると誤解させるような説明になっています。
この本を見たか、1970年の江戸の坂東京の坂や1976年の新宿区町名誌:地名の由来と変遷(新宿区教育委員会)では、芥坂の別名が長延寺坂としています。
[長延寺内の参道が長延寺坂???]
昭和56年の新宿区史蹟地図(新宿区教育委員会)に、長延寺内の参道であったところに長延寺坂と書かれています。グーグルマップに表示される長延寺坂の位置です。新宿区教育委員会は、芥坂の別名が長延寺坂としたことが間違いであったことに気づいたようですが、新たな間違いを生み出したようです。
この坂には、「昔,この坂上に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々が,この坂を通ったことから自然にそう呼ばれるようになったという。平成三年九月 東京都新宿区教育委員会」とある木の標柱が建てられていたそうですが、今は金属製の長延寺坂の標柱が建てられ、同様のことが書かれているそうです。
また、新宿区は長延寺坂のページでも、長延寺内の参道であった道の紹介をしています。
新宿区のホームページに、意見を書き込めるところがあったので、間違いではないかと指摘させていただいたところ、間違えていたので直していく旨のご連絡がありました。
(2026.6.17 新宿区の長延寺坂のページは訂正されていました。)
[新宿区の対応について]
昭和56年の新宿区史蹟地図(新宿区教育委員会)は、横関英一 著 「江戸の坂東京の坂」や、石川悌二 著 「東京の坂道 : 生きている江戸の歴史」などを参考に、坂道を特定されたようで、これらの書籍の誤りを引き継いだりして、長延寺坂のほか、24暗闇坂、49袖摺坂、74弁天坂なども間違っていました。
新宿区は誤りのあった坂道について、標柱を立て直すなどの苦労をいとわず訂正されていたようですし、今回の長延寺坂も素早く対応していただいて、立派というほかありません。
これに対し、港区は芋洗坂について、「正しくは現在の六本木6丁目1~2番と6~7番との間を西の方へ上る道をいったが、六本木交差点への道が大正以降にできて、こちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。」と、間違ったところを芋洗坂としたことについて、港区が標柱を建てて、市民の間に間違った芋洗坂を広めておきながら、「こちらをいう人が多くなった」と居直っており、図々しいというか恥ずかしいというか何でしょうか。
正しいことを市民に伝えなければならないという行政の基本を忘れて、港区は半世紀以上にわたって間違いをいまだに広めています。
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