笛吹峠、もう一つの巡礼街道

 笛吹峠について、鳩山町嵐山町のホームページには、この場所は鎌倉時代以降広まる坂東札所めぐりの中で、9番慈光寺(ときがわ町)と10番正法寺東松山市)を結ぶ巡礼街道との交差点にもなっていると説明されています。

 一方、鳩山町史別巻 2「鳩山の地誌」のp.124から観音道の説明があり、竹本~奥田を通る道が、大正15年の道標や1818年の「川越松山巡覧図示」により説明されていますが、後者は、未刊随筆百種 第22に収められている川越松山之記のことのようです。より南回りの道の説明もありますが、遠回りにならない竹本~奥田を通る道を巡礼者がよく利用していたと思われます。
 北原糸子さんの論文に、1847年の虎勢道中記の行程が表にまとめられ、3月8日のところに、奥田→慈光寺とあり、参拝箇所のところに岩殿山正法寺とあり、虎勢道中記においても、竹本~奥田の巡礼道を通って岩殿山正法寺から慈光寺へ行ったようです。

 「鳩山の地誌」には笛吹峠を通る道の説明がありません。笛吹峠を巡礼街道が通っていたのか疑問になります。

 玉川村史 通史編のp.507に、1652年の玉川郷と竹本村との間の境についての取り決めがあり、順礼海道のことが書かれ、玉川郷と竹本村との境を、一市から笛吹峠に向かう道が通っています。また、嵐山町史の村々の地名の笛吹峠に接している将軍沢の地名に順礼街道があります。これらの書物の記載からは、笛吹峠を土地の人たちが順礼街道と呼ぶ道が通っていたのは確かなようです。

 あしなか(52号)の「奥武蔵の交通路の変遷」新井良輔の記事の(九)慈光寺道の項に、「慈光寺から坂東十番、比企の岩殿へは、越生から大谷ヶ原六地蔵峠を越えたが、それは江戸も中期以後の事で、それ以前は、都幾川沿いに玉川へ下リ、こゝから須江峠(笛吹峠を越えて行つた。玉川村と鳩山村の境にある丘陵地帶に、細々と尾根道が続いているが、土地の人達はこれを巡礼街道と呼んでいる。 明治に入ってからは、越生から耒る道に代つて、今迠裏街道の様な役をつとめていた、松山から玉川を経由する道が表街道となつた。・・・」とあります。
 越生や松山を経由するのは、慈光寺と岩殿との間を歩くのには相当な遠回りになるので、越生や松山に寄り道する巡礼者しか利用しなかったと思われ、この記事はあまり信用できなさそうですが、笛吹峠を通る道には、道標などの石造物はないようで、このあしなかの記事にあるように、江戸中期以後は、笛吹峠を越える巡礼街道はあまり利用されていなかったのかもしれません。

 平成や令和になって坂東巡礼をしているひとのページをみると、ほとんどの人が笛吹峠を歩いていますが、竹本~奥田を通る巡礼道もお勧めです。