人見街道

 久我山5丁目24番23号に、杉並区が設置した人見街道の案内表示板があり、そこには次のようにあります。

「浜田山駅北側の、井の頭通りの分岐を起点に高井戸東・高井戸西・久我山を通って府中市若松町新小金井街道に接する都道14号及び110号は人見街道と呼ばれています。総延長は約12キロで区内延長は約3.3キロです。
 古くは久我山街道や府中道などと呼ばれた区内の古道の一つで、武蔵国府府中(今の府中市)から大宮(今のさいたま市)に行く大宮街道、下総の国府(今の市川市)へ通ずる下総街道の道筋であったといわれ、近世以前は東西を結ぶ重要な道路であったと考えられています。近くの久我山5丁目9番の辻にある享保7年銘の石塔(杉並区登録有形文化財)には「これよりみぎいのかしらみち」「これよりひだりふちうみち」とあり、近世には井の頭や府中への道として利用されていたこともわかります。昭和の初めに、久我山駅辺の直線化や拡幅などの改修が行われ、昭和59年(1984年)4月には府中のかつての人見村(今の府中市若松町)を通ることから東京都通称道路名として「人見街道」と名付けられ今日に至っています。
 現人見街道とは別に、久我山1丁目と世田谷区との境界道路も以前は人見街道、或いはやまん街道と呼ばれ、甲州街道脇街道であったといわれています。
 現在の人見街道筋には、東京都の天然記念物である横倉邸のケヤキ並木を始め、古刹松林寺、大熊稲荷神社、庚申塔などの文化財が点在し、その歴史の古さを物語っています。」

 要するに、東京都は本来の人見街道とは違う道なのにかかわらず、人見街道という通称を付けたということで、三鷹一小前交差点より東の人見街道は東京都による古道の捏造といえます。このことで杉並区は迷惑を被ったようで、案内表示板にわざわざ以前の人見街道のことをも書かざるをえなかったようです。出来の悪い東京都の役人が作った案を、東京都の道の歴史についての知識が全くない委員がそのまま了解して決まったものでしょう。案を作った役人は、東京府道24号の道筋を尊重したのでしょうが、良識のある役人は、そのようなことはしないでしょう。
 杉並風土記 下巻 (杉並郷土史叢書 ; 6)p.540-541に、その当時のことが書かれています。

 

 なお、人見街道の道筋は、坂道散歩さん街道の旅さんなどのページで紹介されています。

 

 杉並区の案内表示板には、「大宮街道、下総街道の道筋であったといわれ」とありますが、これには諸説あるようです。

 菊池山哉さんが書いた府中市史史料集 第11集p.186には、下総街道は、大宮八幡に出ることが書かれ、また、森泰樹さんの杉並の古道と乗瀦駅には、杉並区の通称道路名・人見街道の道筋が示され、大宮八幡前で大宮みちと下総往還が分れることが書かれています。
  一方、芳賀善次郎さんは、武蔵古道・ロマンの旅 (さきたま双書)で、牟礼二丁目交差点で通称道路名・人見街道と分れ、三鷹台駅に向かう道を想定されています。
 また、藤原音松さんの武蔵野史には、府中から国分寺町、小金井町、三鷹町というルートが示されています。

 正確には、「道筋であったという説があり」、せめて「道筋であったともいわれ」とした方がよかったかと思います。

 

 杉並区の案内表示板には、「近世には井の頭や府中への道として利用されていた」とあります。
 通称道路名・人見街道は、牟礼二丁目交差点を通り、三鷹一小前交差点で、以前の人見街道と合流し、府中へ向っていますが、玉川上水のどんどん橋を渡った先の旧道の分かれ道の角にある、享保17年の庚申供養塔には、「右 是より 古く帰ん寺」「左 是よ里 ふちう道」とあるそうで、府中に向かう人は、この角を右に曲がり牟礼二丁目交差点の方に行ったのではなく、真っすぐ東八道路を越えて以前の人見街道に合流したものでしょう。
 東京都が通称道路名とした人見街道は、久我山を通る古道である府中道とも道筋が異なっているようです。

 

 以前の人見街道は、案内表示板では「甲州街道脇街道」とされていますが、新編武蔵風土記稿には、甲州裏道とか府中裏道と書かれています。いつから人見街道と呼ばれだしたか興味あるところです。三鷹の民俗 10 (新川) (文化財シリーズ ; 第19集)に、田中平太郎さんが青年のころから人見街道と呼ぶようになったことが書かれ、この田中さんは明治43年生まれなので、昭和初期からは、人見街道と呼ばれていたようで、人見街道は江戸時代からの街道名ではなかったようです。

 誰が人見街道と呼び始めたかは、調べても不明でした。