滝坂道


 滝坂道について、世田谷デジタルミュージアムによると、「瀧坂道(たきさかみち)は慶長7年(1602)に江戸幕府甲州道中を開くまでの府中道で、特に中世世田谷吉良氏の居城であった世田谷城にとっては重要な道であった。この道は府中市瀧坂(東つつじヶ丘)で甲州道中と合流し、江戸時代には「甲州道中出道」と呼ばれていた。瀧坂道の起点は渋谷区道玄坂頂上の付近の坂で、道の起点名から別名「青山道」とも呼ばれている。」だそうです。
 その道筋は、赤色で駒場道に示しましたが、街道の旅さん坂道散歩さんなど多くの人が紹介されています。

 

 調べた中で、滝坂道について記載される一番古い資料は、世田谷の古道の記載を信じれば明治初年の千歳村全図というのがあり、滝坂道は仙川滝坂から八幡山町を通って松原の京王線明大前あたりへ出る道だそうです。迅速地図に、甲州街道から仙川滝坂で分れ、八幡山を通り、下高井戸で甲州街道に合流する道が見て取れます。多分この道が滝坂道と呼ばれていたようです。
 新編武蔵風土記稿の上祖師ヶ谷村のところにでてくる甲州の裏道も、この道のことと思われますが、渋谷道玄坂を起点にする道とは違う道筋です。

 

 大正2年荏原郡農会史という資料がありました。これには、「瀧坂道は世田谷村地内厚木街道より分れて松澤村を経北多摩郡神代村にて甲州街道に接続し」とあり、こちらも渋谷道玄坂を起点にはしていません。世田谷のボロ市通りから千歳船橋駅のそばを通って、榎交差点で渋谷道玄坂を起点とする滝坂道に合流する道のようです。世田谷の古道のp.34の、古老の話の滝坂道というのもこの道のことのようです。

 なお、この道を六道田無道と呼ぶこともあるようですが、六郷田無道の不思議で書いたように、六郷田無道というのは捏造された名前のようです。

 

 明治24年の官報に、天皇行幸として「・・道玄阪ヲ上リ中澁谷村字豐澤右ヘ瀧阪道通近衞騎兵營」とあり、道玄坂に出る道も明治時代には滝坂道として呼ばれるようになっていたようで、大正9年の東京府荏原郡勢一覧にも出てくるように荏原郡の道の名として正式に用いられるようになっていたようです。

 

 道玄坂に出る道が、明治以降の近代ではなく、江戸時代に滝坂道と呼ばれていたことを示すものは見出せませんでした。江戸時代の呼び名について見て行きましょう。
 上祖師谷村付近では甲州の裏道と呼ばれていたのは上述の通りです。また、前出の「世田谷の古道」からは「青山道」と呼ばれていたようです。
 新編武蔵風土記稿の上目黒村のところに「一は駒場道と云、相州道よりやゝ北の方にあり」と、駒場付近では駒場道と呼ばれていたようです。

 

 滝坂道が、甲州道中を開くまでの府中道であったことを確認できるような資料は見つかりませんでした。これも出来の悪い郷土史家のでまかせかと思ってしまいます。

 また、江戸時代には「甲州道中出道」と呼ばれていたというのも怪しい話です。甲州道裏道と書かれた「裏」のくずし字を「中出」と誤読したことから、甲州街道に出る道である渋谷道玄坂から滝坂への道のことと勘違いしたものと思われます。なお、くずし字を調べられるサイトがあり裏、中、出のくずし字を見ることができます。