道玄物見の松

遊歴雑記初編(1812-1829)の中11「東武三十六の名松名寄」にある「物見の松」の場所を調べてみました。そこには道玄坂の際とだけ記されています。

 

 新編武蔵国風土記稿(1804-1829)の上目黒村の小名宿山組のところに、「この地の民清三郞が宅地に古松ありて、道玄物見松と唱へしに、名主市之丞願上伐取れり、明和九年(1772)伊奈半左衞門支配たりし時、今に清三郞が庭前に其跡あり」とあり、
駒場坂のところに、「此坂下に一株の松あり、圍六尺許一本松と云、小名の條に云へる道玄物見松伐取し後は、土人この松を道玄松と呼べとも、僻ごとなり」とあり、
江戸名所図会(1834-1836)の道玄物見松のところに、「道玄坂を登りて七町あまり西の方、同じ街道大坂と云より此方、右側にありしが、明和の頃枯たりしかば伐たりと云。・・・。今駒場坂の下、用水堀の傍に一株の古松あるを混じて、道玄松と稱すれども、一本松と稱してこの松と別也。」とあります。

初代の物見も松があった場所については、宿山組と大坂此方右側とあります。宿山組は、今の寿福寺や宿山の庚申塔、宿山交番のあたりから宿山橋の方まで、東西に広がっていたようです。大坂此方というと今の大阪上バス停のあたりでしょうか。宿山組よりもだいぶ北の方になり、別の場所を示しているように思えます。江戸幕府直轄の昌平坂学問所が作成した新編武蔵国風土記稿のほうが信頼できるとしても、宿山組の清三郎宅というだけで場所の特定は困難です。いずれにしても、道玄坂より西にはずれ、道玄坂の際ではありません。

初代の松は明和に伐採されたようで、遊歴雑記が書かれたころには無くなっていましたが、地元の人は駒場坂の下にある別の松を物見の松と呼び始めていたようです。名松として見物に訪れる人目当てでしょうか。場所は今の松見坂交差点あたりになり、こちらも遊歴雑記にある道玄坂の際とは違うようです。

 

「御府内備考」の道玄坂の項(1828)に、「坂の上近き處に道玄物見松というふものあり」とあります。また、「渋谷風土記 旧史編」(1935)には、「道玄坂の中途南側の今坂本醫院のある所に老松があつて、之をも物見の松と唱へたが、三十餘年前雷に打たれて枯れた。」とあります。「日本医籍録 昭和9年版 関東版」をみると、坂本醫院は大和田51にあって、当時の地図「東京府豐多摩郡澁谷町全圖 番地界入」から大体の場所がわかります。道玄坂の中ほどより少し上でしょうか。同じ松のことが述べられているとも思えます。
この松が、道玄坂の際にあったもので、遊歴雑記にある物見の松のようです。道玄坂の人々も駒場坂下に対抗してか、別の松を物見の松と呼んでいたようです。