浅草の浅草寺に東京都最古の石橋があります。
「現存する都内最古とされるこの石橋は、元和4年(1618)浅草寺に東照宮(現存せず)が造営された際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫ふりひめの婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟あさのながあきら(広島浅野家藩祖)である。
この石橋は昭和23年(1948)、文部省より重要美術品に認定されている。
金龍山 浅草寺」と説明板にあります。
一方、文化10年の「浅草寺志」第5巻には、
と石橋のことがあり、浅野ではなく板倉が寄進したことになっています。同時期にかかれた遊歴雑記二編の下二十二にも、板倉伊賀の守が寄進の石橋のことが書かれています。
とあります。ちなみに「并」は「並びに」の慣用表記、「しト」のような字は「候」のくずし字です。浅野が寄進したのは石の手水鉢のようで、石橋や金燈籠の寄進者は書かれていません。
昭和37年の「浅草寺史談抄」(網野宥俊 著)のp.637-8に
とあります。
浅草寺のHPによると、日並記は寛保2年(1742)から明治期までの記録が現存していて、 寛保2年より明治期までの浅草寺の記録を「浅草寺日記」として刊行されているようです。国会デジタルコレクションには第21巻までしかないようですが、検索したところ「橋」や「石」についての記載はないようです。「浅野」で検索すると、第14巻に、浅野但馬守献上の灯籠と手水鉢の話が出ているようですが、「浅草寺志 上巻」のp.312-313にある文政寺社書上の取調のときの話のようです。
「浅草寺史談抄」の話の真偽のほどはいかがなものでしょうか。「浅野家の寄進であることが見えている」というのは明記されていないことを暗に示しているのでしょうか。どのような記載を根拠に見えるのかが明らかではありません。石橋の寄進された当時の日並記はないのに、浅草寺志の記載を否定するほどのものが日並記にあったのでしょうか。
「浅草寺志」を書くにあたり、日並記も当然に参考にしたであろうから、板倉が寄進したというのを否定するなら、それなりの根拠を明らかにしないと説得力がまったくありません。「浅野家の寄進であることが見えている」としただけなのはまったくいただけません。
私は、石橋は板倉が寄進したものと信じることにしました。