清土通り(せいどどおり)が清戸坂(きよとざか)になってしまった

 護国寺前交差点から目白台二丁目交差点までの道は、昭和37年に「不忍通り」との通称道路名が付けられ、いまでも不忍通りの一部となっています。

 この道の過去の名称について調べてみました。

 

[江戸時代]

 江戸叢書に収められている文化9年から13年の見聞が書かれた庵遊歴雑記第3篇遊歴雑記第5編には「清土(セイド)通り」とあります。新編武蔵国風土記稿雑司ヶ谷村の小名として清土(セイド)があります。清土を通るから清土通りと呼ばれたのでしょう。

 一方、文化12年の江戸近郊道しるべ嘉永7年の御府内場末往還其外沿革圖書には「清戸」と地名が書かれていますが、「きよと」ではなく「せいど」と読むのでしょう。

 

[明治時代」

 明治22年に東京市が誕生し、東京市区改正全書にあるように、第97の第5等道路になっていますが、道路名は付けられてはいないようです。

 いまでは東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線になっていますが、変遷については不明です。

 

[昭和時代]

 文京区史 巻3に収められている昭和2年の新聞に掲載された大東京繁昌記でも、江戸時代と同じように「清土通り」と呼ばれています。

 

 昭和53年の文京区史跡散歩 (東京史跡ガイド ; 5)に、道沿いの町並みが江戸時代の地図では清土村(きよとむら)百姓町となっているので、この長坂を「清土坂」と名付けていることが書かれています。

 著者の江幡潤が、清土を「きよと」と誤読したあげく、緩やかな坂道であることから「坂」と命名したのでしょうか。江戸時代にはこのあたりの急坂は〇〇坂と名付けられていますが、この坂は緩やかで、江戸時代に坂と名付けられるほど急ではなかったようです。

 それとも、戦後になって「きよとざか」と呼ぶ地元の人がいたのでしょうか。なんとも眉唾な話です。

 

 その2年後に文京区教育委員会が発行したぶんきょうの坂道には、清戸きよと坂(清土せいど坂)が書かれていて、「延宝4年(1676年), 御三家 尾張徳川家の御鷹場が、中清戸(現清瀬市) に出来てから、将軍が鷹狩りに通った道ができた。これを「清戸道」といい、これが現在の目白通りである。この清戸道から、目白台護国寺に下る脇道が清戸坂である。清戸道に上る坂ということで清戸坂とつけられた。江戸時代, この坂の北側一帯は、雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で、坂の道沿いに雑司ヶ谷清土村百姓町があった。・・・」とあります。

 寛文11年-13年の新板江戸外絵図 小日向、牛込、四ツ谷目白通りが既に描かれているし、寛永年間に目白不動の名を家光が贈ったとの話もあるし、「将軍が鷹狩りに通った道ができた」というのは誤りですし、そもそも、尾張家の鷹場に通ったのは尾張藩主であり、将軍が通ったというのも誤りです。

 また、「清戸道」というのも、明治になって名付けられたもので、目白通りは江戸時代に清戸道と呼ばれてはいなかったようです。

 文京区教育委員会文京区史跡散歩 (東京史跡ガイド ; 5)を見て、清戸坂の作文をしたのでしょうか。

 文京区教育委員会に、1980年以前の清戸坂に関する資料がないか問い合わせたところ、そのような資料はないとのことでした。清戸坂があったということを示すエビデンスがないようで、今後、文京区教育委員会はどのように対応していくのでしょうか。このままでは文京区教育委員会が清戸坂を捏造したことになってしまいます。

 

 その後、清戸坂の説明板が東京都と文京区教育委員会によってそれぞれ建てられ、いまでは誤って江戸の坂と思っている人も多そうです。