日光御廻道・高柳村

 日光御廻道を歩くために調べていると、「お廻り道」をいくという サイトがありました。そこにある久喜市立郷土資料館のパンフの地図と五海道其外分間絵図並見取絵図の日光御廻道見取絵図と比べてみると、高柳村のところが違うようです。

 

国土地理院

 寳聚寺と古門樋橋との間は、こちらのルートが見取絵図のルートになります。

西国三十三所巡礼道

 歩いて西国三十三所巡礼をするための道筋が分かる書籍として、「アリの会/編集 西国三十三所古道徒歩巡礼地図」、「森沢義信著 西国三十三所道中案内地図(上下)」というのがあります。
 また、西国古道ウォーキングサポートというサイトがあり、巡礼のルートが紹介されています。

 お大師様の歩いた道を歩こうとする四国遍路とは異なり、西国巡礼は、どこを歩いてもかまわないと思いますが、できるだけ昔の巡礼者が歩いた道を歩いてみたいものです。上記のサイトのルートをもとに、自分が歩くために検討した巡礼道をまとめてみました。

西国三十三所巡礼道
こちらをクリック

久世の鷺坂 -本当の場所は-

 万葉集に、鷺坂・鷺坂山について記された柿本人麻呂作と思われる次の3つの歌があります。(万葉百科 より)
山背の久世の鷺坂神代より春は萌りつつ秋は散りけり 「山代久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散来」巻9-1707
白鳥の鷺坂山の松陰に宿りて行かな夜も更け行くを 「白鳥鷺坂山松影宿而往奈夜毛深往乎」巻9-1687
栲領巾の鷺坂山の白つつじ我ににほはね妹に示さむ 「細比礼乃鷺坂山白管自吾尒尼保波尼妹尒示」 巻9-1694

 また、堀河院百首(長治二-三年、1105-6年)に次の歌があります。
志ら鳥の鷺坂山を越くれば小篠の峯に雪降にけり(顯季)

 鷺坂の場所について興味を持ったので、いろいろ調べてみました。なおリンク先の資料には、国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスで閲覧可能なものも含まれています。個人向けデジタル化資料送信サービスに登録してログインすれば見ることができます。

[万葉の鷺坂]

 鷺坂について、正徳元年、山州名跡誌(1711)に、長池人家の北、五町ほど山上に在りとあり、また、同年の山城名勝志(1711)には、鷺坂山について、土人曰く長池町の東北の山なり今田地に開きて鷺坂ひらきと云うとあります。
 弘化5年(1848)の富野村絵図に鷺坂山の位置が描かれ、いまでも長池の北に京都府城陽市富野鷺坂山という地名があり、これらの書物の記載が裏付けられています。城陽市史 第1巻の奈良時代の交通では、近年の古代道路の研究をもとに、奈良時代の交通路について検討するとともに、長池の北の小字鷺坂山の西南の境界線の坂について、奈良地方から久世郡に入って印象的な坂だから万葉集などで読まれた鷺坂にふさわしいとしています。芝山遺跡で発見された道路遺構は、古代の官道がこの坂を通っていたことを示し、鷺坂の位置についての城陽市史の結論は至極妥当と思います。

 この江戸期の2つの書物に、仙覚抄曰く鷺坂は久世郡にあると記されていますが、契沖全集 : 9巻附2巻 附卷 下卷をみても根拠となる記載が見つけられませんでした。
 万葉集柿本人麻呂作と思われる次の2つの歌があります。
山背の久世の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ 「 開木代来背社草勿手折己時立雖榮草勿手折」巻7-1286
山背の久世の若子が欲しと言ふ我あふさわに我を欲しと言ふ山背の久世 「開木代来背若子欲云余相狭丸吾欲云開木代来背」巻11-2362
 久世ではなく来背としているのは、広く久世郡をいうときには「久世」と、狭い範囲の久世郷をいうときは「来背」と使い分けているのではないかと思いましたが、たしかではありません。

 山州名跡誌には、「是則古大和路、古は宇治橋の西より未方直に此路に出て大和街道に到し也、今の路は秀吉公の御時開く所なり」とあります。大乗院寺社雑事記. 第8巻 尋尊大僧正記に、室町時代の奈良から京都に上る道が次頁の図とともに示され、菜嶋(奈島)、夜叉ツカ(水度神社 一の鳥居あたり)、クセノ宮(久世神社)、八幡伏外(八幡伏拝、御拝茶屋八幡宮)を通り、その先、図では赤坂で右に曲がり、今神明(神明)を通って宇治に行くようになっていて、室町時代には江戸期と同じ道筋だったようです。山州名跡誌の記載は、宇治からの道は秀吉が太閤堤を造って通る必要がなくなったことと、万葉の鷺坂を古の大和路が通っていたことが関連していると誤解したようで、山城名跡巡行志(1754)では、後半の記載がなくなっています。山州名跡誌の記載から、秀吉以前の奈良街道は、宇治から新田に出るのではなく、山の中の栗隈越えだった思われていようですが、宇治市史 6 (宇治川西部の生活と環境)の大亀茶屋の項にあるように、栗隈越えの通説がくつがえされ、城陽市史 第1巻の 平安時代の交通にあるように、平安からも、ほぼ江戸時代と同様の道筋だったようです。

[江戸期の新鷺坂]

 江戸期の奈良街道は、いにしえの鷺坂を通ってはいませんが、享保19年の日本輿地通志(1734)には、鷺坂、長池久世二村間に在るとされ、天明二年の上田秋成の文書(1782)にも、長池と久世のあひたを、くせの鷺坂なりと云いとあります。
 長池と久世との間というと寺田になります。寺田にある奈良街道の坂道というと、26.7mの三角点の手前にゆるやかな坂道があります。旧鷺坂を街道が通らなくなったために、新たに寺田のこの坂を鷺坂と呼ぶようになったと考えられます。この坂は、山州名跡誌にある三田坂のようで、また、この坂は寺田八景にも含められていたようです。

[明治以降の鷺坂新説]

 「昭和3年秋 禀京都三宅安兵衛遺志建立」、「久世鷺坂舊跡」とある石碑が、前は久世神社の西の旧奈良街道にあった(久世神社の参道入り口の右向かいの井尻さん宅の前のようです)のが、今は久世神社の東に移されています。この碑を見て、久世神社の東の坂が鷺坂としている人々も多くいるようです。

 城陽市史 第4巻享保4年(1719)の久保田清一家文書に、寛永13年(1636)に、久保田兵助兼信が女二宮(後水尾天皇皇女)に、久世神社で鷺坂山の歌について、「此所の御哥とかや」と説明し、宮は「ご機嫌ななめならす」とあります。このとき、神社のあたりに禊ができるような川がないにもかかわらず、玉久世河原が「此河原の事とかし」とも説明したようで、鷺坂山についても、信頼できる説明であったとは思えませんが、女二宮が認めたとして、久世神社のある山を鷺坂山としたのでしょうか。史料が語る城陽近世史 第4集 (久津川地域編)の万治元年(1658)の久保田清一家文書では、「久世村の社鷺坂山」となっています。江戸期の久保田家は郷侍として久世神社の神事に深く関与していたそうで、幕末には村人にも鷺坂小篠(小笹)の地であることが広まっていたようです。明治になって、天照大神であった祭神を日本武尊にして、大日本地名辞書 上巻(1870)や京華要誌 下(1895)を作成するときに調べに来た人などに、鷺坂小篠の地がここだと伝え、広めていったものと思われます。
 京華要誌や京都名勝記 下巻(1936)に、久世神社が小字鷺坂小篠にあるとされていますが、堀川百首の「志ら鳥の鷺坂山を越くれば小篠の峯に雪降にけり」の歌からは、鷺坂と小篠は別の場所と思えます。これらを一体とした鷺坂小篠という小字名は明治になって名乗り始めたかして、古来からあったものとは思えません。久世郡史(1923)、南山城の歴史的景観(1987)では、小篠が削除された小字鷺坂となっているのも解せません。
 今の久世神社やその上の久世小学校の小字名は芝ヶ原ですが、城陽市地名図その説明を見ると、明治のころに消滅した小字も多いようです。久世村の小字名の変遷は明らかでないようですが、芝ヶ原の地名は、慶安2年(1649)の文書承応2年(1653)の文書に芝原としてでてくる古いもので、後者を見ると、平川村と寺田村の境も芝原だったようで、古くから久世神社のあたりから芝ヶ原古墳がある山一帯が、芝原と呼ばれていたようです。このことからも、鷺坂や鷺坂小篠という小字は、あったとしても新しいものと思われます。

 明治前期の「村誌」というのがありました。久世村の字地を見ると、久世神社のあたりは、若王子という小字になっています。芝ヶ原でも鷺坂小篠でもない新たな小字名です。万葉集の「山背の久世の若子」の歌と関連付けさせたかったのでしょうか。

 久世の人たちは、当初は旧奈良街道の坂が鷺坂であると思い込んでか、昭和3年(1928)に三宅安兵衛石碑を建ててもらったようですが、万葉集山城歌枕考(1936)では、坂が緩やかという理由で久世神社の東の坂とし、今様歌 : 2編 第二集(1936)では、特段の理由も示さずに久世神社の東の坂としています。
 さらにそのあと出版された久世神社の東の坂とする説の書かれたものも見ていきます。万葉集追攷(1938)では、長池の北の地名は、鷺坂道に沿うているから名付けられたという荒唐無稽な説を唱えています。また、帝塚山学院大学日本文学研究 (9)(1978)では、狭く、具体的に、特殊的に事物を捕らえるのが上代人の通有性であるから、久世は久世の本村としていますが、これも意味不明です。南山城の歴史的景観(1987)では、久世神社と久世郡衙遺跡とを結び、小字鷺坂に位置していて、鷺坂は久世神社の東の坂と推定しうるとしていますが、この坂は正道官衙遺跡の裏手に伸びており、郡衙に登る坂ではなかったであろうし、少なくともこの書物の書かれたときの久世神社の小字は芝ヶ原で、小字鷺坂ではありません。いずれの説をみても、鷺坂を、長池の北ではないとも、久世神社の東の坂であるとも言えません。
 また、これらの文献では、当初石碑のあった旧奈良街道の坂は、後世開かれた新しい道という理由で採用されていませんが、後世開かれたのは、太閤堤を通る新田までの道で、久世神社の西の道は上述のように少なくとも平安時代にはあったようです。

 三宅安兵衛石碑は、久世神社の東の坂という説が主流となったからか、移動させられました。

 安永9年(1780)の都名所図会に久世鷺坂の説明があり、久世村の位置について説明されていますが、久世村と鷺坂の関係には触れていません。久世鷺坂の久世が、久世村のことかもしれないと思ったのでしょうか。また、天明7年(1787)の都名所図会拾遺には、鷺坂の場所を久世のひがし山上にありとしたほかは、山州名跡誌と同しように書かれています。久世神社で話を聞いて、山州名跡誌の記載を修正したのでしょうか。山の上となると、久世神社の東の坂よりもさらに上った上のことのようにも思えます。